体癖のキホン①・・・鬱散と集注

体癖について

体癖のキホン① 体と心が欲しがるもの

生き生きしている人と、そうでない人の違いは何でしょう?

五種や三種だから生き生きとしている?

四種や六種だから生き生きとしていない?

そんなことはありません。

生き生きしているかどうかに、どの体癖であるかは全く関係がないのです。

では何が関係しているのかというと、それは”適切に鬱散と集注を果たしているか?”ということ。

鬱散とは、心の中のエネルギーを燃やして行動すること。

すごく簡潔に言えば、やりたいことをやること。

集注とは、人からのエネルギーを集めること。

すごく簡潔に言えば、人からの注目を得ること。

なのですが、体癖の種によって、心身が要求する(=欲しい)鬱散と集注の様式が異なっているのです。

まずはざっくり。

一種、三種、五種、七種、九種の奇数体癖は、鬱散を要求する度合いの強い体癖です。

二種、四種、六種、八種、十種の偶数体癖は、集中を要求する度合いの強い体癖です。

次に、型。

上下型は、善悪や毀誉褒貶の鬱散と集注。

左右型は、好き嫌いや感情の鬱散と集注。

前後型は、利害得失(エネルギー)の鬱散と集注。

捻れ型は、勝ち負けや闘争の鬱散と集注。

開閉型は、愛憎の鬱散と集注。

そして、種。

一種は奇数体癖で上下型ですので、善悪や毀誉褒貶の鬱散。

正しいことを行う、権威を持つ、メンツを保つ、世間体に沿う、などが一種の鬱散になります。

二種は偶数体癖で上下型ですので、善悪や毀誉褒貶の集注。

大多数に属する、一人前と認められる、安心安全を確保する、平均以上と認識される、などが二種の集注になります。

三種は奇数体癖で左右型ですので、好き嫌いや感情の鬱散。

快を覚える、楽しいことをする、感情を吐き出す、変化を楽しむ、などが三種の鬱散になります。

四種は偶数体癖で左右型ですので、好き嫌いや感情の集注。

愛される、共感される、調和を保つ、良い人だと認識される、などが四種の集注になります。

五種は奇数体癖で前後型ですので、利害得失(エネルギー)の鬱散。

効率よく動く、メリットのあることをやる、目標達成のために動く、合理性を保つ、などが五種の鬱散になります。

六種は偶数体癖で前後型ですので、利害得失(エネルギー)の集注。

特別な存在だと認識される、称賛や崇拝を受ける、他力で物事を解決する、多くの人の承認を得る、などが六種の集注になります。

七種は奇数体癖で捻れ型ですので、勝ち負けや闘争の鬱散。

戦いに勝つ、勝つための行動する、強さを発揮する、とにかく動く、などが七種の鬱散になります。

八種は偶数体癖で捻れ型ですので、勝ち負けや闘争の集注。

強い人だと認識される、他よりも優れる、困難を克服する、頼りになる人と認められる、などが八種の集注になります。

九種は奇数体癖で開閉型ですので、愛憎の鬱散。

物事に没頭する、完璧を目指す、一つのことに集中する、思い立ったらすぐ動く、などが九種の鬱散になります。

十種は偶数体癖で開閉型ですので、愛憎の集注。

人に貢献する、感謝の念を受ける、お世話をする、人や花などを成長させる、などが十種の集注になります。

十一種や十二種は、特定の要求の方向がありません。

体癖という研究は、どの種がどんな言動のパターンを持っているか?という”癖”にフォーカスすることも大切ですが、その大元は何か?を探っていく方が価値が高いことが多いのです。

種ごとの鬱散と集注の要求の方向(=感受性)は、その種の言動を決める部分が多く、十分に鬱散と集注を果たしている(=要求の方向を満たしている)人と、そうでない人とでは、全く同じ種なのに言動が異なることが確認されます。

前者は生き生きとしていて、後者は鬱屈しているように見えます。

つまり、体癖という研究は、「自分や他者はどんな人間なのか?」ということ以上に「自分や他者がどうやったら幸せでいられるか?」という側面の大きい研究でもあるのです。

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