体癖のキホン⑥

体癖について

どの体癖も“サイテー”で“最高”

巷ではよく「親ガチャ」や「才能ガチャ」など、自分では決められないことに対して“〇〇ガチャ”という言い方をするのが定着しつつありますね。

そういう気持ち、なんとなく分かりますよね?

自分の境遇を嘆いたり、人の環境を羨んだりする気持ち…

実際、世の中は自分で決められないことばかり。

それらに当たり外れがあると思ってしまうのも、人情なのかもしれません。

では、“体癖ガチャ”はあるのか?

断定します。

そんなものはありません。

なぜなら、すべての種が…

サイテーだからです。

同じくらい、サイテーです。

なんて書くと反発を生みそうですが、実際のところそうなのだからしょうがないのです。

一種はなぜか自分が正しいという前提で上から目線でモノを申してきますし…

二種は受け身なのになぜか自分が芸能人ばりに人に見られていると思っていますし…

三種はワガママで自分の話ばっかりで人の話をちゃんと聞かないし…

四種は距離が遠めの人にならよく気を遣うけれど近い人にならネガティブを撒き散らすし…

五種は用のある人になら手厚いですが用のない人にはやたらとドライですし…

六種は普段は穏やかなのに急にブチ切れたりするし…

七種は圧が強くやたらと張り合おうとしますし…

八種はなんでも否定してきて人の不幸を笑ったりしますし…

九種は人が話しかけているのに何かに熱中していると無視するし…

十種は困っていなさそうに見える人は一切助けないしそれどころか「こっち側の人」として扱うし…

これ以外にも、体癖各種はまだまだサイテーなのです。

強みがかき消されるくらいには。

しかも複合体癖でサイテー度もマシマシに。

一つの種でもサイテーなのに、それが二つも三つも重なるわけです。

その一方で…

体癖の最高なところばかりが表れている人もいます。

体癖の強みを最大限に発揮しながら、「え?本当にその種?」と思わせるような振る舞いができる人が。

サイテーな部分だけが目立つ人と、“最高”を発揮している人の違いは、体癖の種や複合体癖の構成ではありません。

四種ならハズレで五種ならアタリ、ということは絶対にないのです。

それは、“ストローク”

ストロークとは、世界中で知られ様々な心理学の大元になっているTA(Transactional Tnalysis:日本語で“交流分析”)という心理学の用語で、ごく簡単に言えば「自他を肯定的な存在として認める言動や在り方」のことで、さらに簡単に言うと“愛”のことです。

最高を発揮している人は、どの体癖であっても、ストロークに満ちています。

一種でも上から目線ではありませんし、八種でも素直さを感じられます。

ストローク=愛と言うと、他者にだけ注ぐものと思われがちな面もあり実際そのような面もあるのですが、自分自身に注ぐこともとても重要です。

体癖の用語に当てはめるとすると、それは“鬱散”ということになります。

自分がやりたいことをやる、何か一つのことに深く没頭する、目標を達成する、スポーツをしてストレスを発散するなど、体癖の種ごとに鬱散の方向は異なります。

一種、三種、五種、七種、九種の奇数体癖は特に鬱散が必要で、適正で、十分な鬱散をしないと体癖のサイテーな面が濃く出やすくなるのです。

対して、二種、四種、六種、八種、十種の偶数体癖は、人からストロークをもらうことが重要な体癖です。

人からストロークをもらうことを体癖の用語では“集注”と呼んでいます。

人に話を聞いてもらう、良き存在だと認識してもらう、褒められる、注目してもらう、といったことが集注を満たすということで、奇数体癖と同じように偶数体癖の種ごとに集注の方向は異なります。

ただし、奇数体癖なら鬱散だけをしていればいい、偶数体癖なら集注を満たせばいい、ということではありません。

なぜなら、厳密に言えば誰もが一種から十種の要素は備えており、その中で特に濃いものを何種と呼び、誰もが複数の種を持っている複合体癖なのですが、それ以外にもうっすらと他の種の要素も持っているからなのですね。

ですので、一種七種九種のような奇数種ばかりの人でも集注は必要で、二種四種六種のような偶数種ばかりの人でも鬱散は必要なのです、

十分に鬱散と集注を果たしている人は皆、ストロークが溢れています。

ストロークが溢れていると、相手の鬱散を邪魔することが少なくなり、相手の集注を助けます。

相手にフォーカスする余裕が出てきて、意識しなくても愛のある振る舞いをするようになるのですね。

そう、それが最高!

ストロークが欠けている人は、どうしても自分にフォーカスして、無意識に自分にだけ都合のいい鬱散や集注をしようとしてしまうのです。

結果、相手の鬱散要求や集注要求が見えなくなり、相手が「イヤだな」と思うことをしてしまったり、周りにダメージのある行動をしてしまう。

要は、サイテーの部分が目立ってしまう、というわけです。

このようにストロークは自分らしく楽しく生きていく上でとても重要な要素ですが、一つだけ注意が必要です。

それは、普段はストロークに満ちている人でも、体が疲れていたり、トラブルがあったりすると、ストローク量は減る、ということです。

それ以上に、鬱散も集注もしていかないと、勝手に少なくなってしまいます。

ストロークは固定的なものではなく、流動的なものです。

ですので、低潮の時は十分に休んで集注を意識し、元気な時はしっかりと鬱散することが大切なのですね。

もっと体癖に合った適正な鬱散と集注を十分に果たせば、あなたの心はもっと自由になり、人にもっと愛を注ぐことになります。

体癖とは、鬱散と集注の要求の方向

自分の体癖のすべての要求に応え、最高の部分だけを発揮していきましょう!

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