体癖を診断する大切さ

体癖エッセイ

◯診断法のそれぞれ

ネットには多くの体癖に関する情報が載っています。

中には、芸能人の体癖を載せているページもあったりしますね。

「写真を見れば分かる」と豪語する人もいますし、その場の言動や心理テストのようなもので体癖を断定する人もいます。

また“気”の流れを読んだり、背骨の触診だけで体癖を診断される人もいます。

もちろん、発信されている方々が人生の時間をかけて研究してきた結果ですから、そういった鑑定も否定すべきものではありません。

しかしながら、これらはすべて主観の領域を出ない診断法・鑑定法であると言わざるを得ないのです。

主観で診断を下した場合、Aさんという診断者は受けた人を何種だと診断し、Bさんという診断者は他の種だと言います。

受けた人は非常に混乱します。

「自分は本当のところ、何種なんだろう?」と。

実際にこういった例は実に多いのですが、日本体癖協会認定の体癖診断士による診断では、そういった事は起こり得ません。

Cという診断士も、Dという診断士も、高潮と低潮の体の波による体癖の変化は別として、全く同じ種の構成、全く同じ種の数、全く同じ種の順番で診断されます。

受ける人が高潮時に四種一種の人であれば、高潮時であれば何度検査しても、どの認定体癖診断士が検査しても、必ず四種一種と診断されます。

なぜなら、認定されているすべての体癖診断士は全員共通して、同じ複数の主観を入れる余地のない客観的な検査法で診断しているからです。

認定は、体癖診断士に必要な知識や技術をマスターし、さらに非常に高いハードルの技術試験を合格した人のみに下ります。

◯体癖の“論”の違い

体癖を取り巻く問題は、診断法だけではありません。

体癖という学びの前提や捉え方が共通されていないのも、混乱を招く一因にもなっています。

様々な体癖“論”が、ネットやセミナーなどでたくさん見られます。

「複合体癖は考えなくていい」と言う人もいれば、「体癖は同じ型同士でも複合する」と言う人もいますし、「体癖は必ず3つ複合されていてその構成は必ず奇数と偶数を含む」と言う人もいます。

そもそも高潮と低潮の体の波という前提がなかったり、鬱散と集注、要求の方向といった視点がない体癖論も散見されます。

診断と同じように、発信されている方々が人生の時間をかけて研究してきた結果ですから、そういった考えも頭ごなしに否定すべきものではありません。

が、これらはすべて体癖を発見された野口晴哉先生の主張と、大きく乖離していると言わざるを得ないのです。

いや、野口晴哉先生の体癖に関しての論と食い違っているのが問題なのではありません。

論が食い違っているのであれば、「なぜそういった結論になるのか?」がある程度の筋道を立てて説明できて、それ以上に客観的な現象をもって客観的に証明でき、再現性が確保されているかどうかが、問題なのです。

論が異なれば、そこから導き出される体癖各種の体や言動や人物像などの特徴も異なってきます。

「一種はカマキリ顔」、「九種は狭い所が好き」のように、なんとなくの特徴の違いが体癖の違いであると捉えている人もいます。

そういった反証が容易い論の上に実証なく論を重ねてしまい、それが世に蔓延してしまえば、ますます混乱は深まるばかりです。

日本体癖協会認定の体癖診断士は、体癖に関して統一された理論・前提の元、統一された方法で体癖を検査・診断し、論ではなくあくまでも現象を追いながら研究を進め発信をしております。

体癖各種の人物像についても、「何種はこういう特徴・傾向の種」という見解が統一されています。

◯自己診断について

自己診断によって「自分は何種だ」と認識する人もいます。

「自分はこの特徴だからこの種」といった感じに自分自身を診断するわけですが、その“特徴”が様々な要因によって違っている場合も数多くあります。

一つは、複合体癖による種の特徴の相殺。

これは体にも言動にも言えることで、一つの種の特徴をもう一つや二つの種の特徴が薄めたり、隠したりする場合の方が多いのです。

一つは、高潮時と低潮時の体癖の違い。

高潮時のイケイケの自分を自分と見るか、低潮時のドンヨリとした自分を自分と見るかで、「これが自分という人間だ」と認識する視点がかなり変わります。

一つは、自己認識と他者認識のズレ。

自分という人間がどんな人間と見るかにも、その人の体癖が深く関わっています。
(日本体癖協会ではこれを“体癖フィルター”と呼んでいます)

自分は三種っぽい言動をすると思っていても、他者から見れば七種っぽい言動をする人だと思われていることも、少なくないのです。

一つは、体癖“論”の違い。

これに関しては前述しましたね。

そして特に重要な一つは、「その特徴だから、その種ということにはならない」ということ。

体の面で言えば、例えば太っているからといって三種や十種と判断するのは早計です。

また痩せているからといって一種や四種ということにもなりません。

野口晴哉先生のご活躍された時代と現代とでは、食や運動を取り巻く環境は大きく変わっていますね。

言動の面で言えば、例えば「自分は怠惰だから六種」と思っても、どの種でも怠惰になるのです。

五種は目標が達成されると怠惰になることが多いですし、九種は興味がないことに対しては基本的に怠惰です。

“葉は同じでも根が違う”ということですね。

その“根”に、自分では気づきづらい要求の方向が隠れていて、その要求の方向こそが体癖を学び実践していく上で特に大切なことなのです。

本人の気づいていない影に光を当てる…

自己認識や他者認識を超えて、あるがままの自分を発見する…

それこそが、“体を入念に検査することによって、自分が分かる”という、他にはない体癖という研究の醍醐味ですね。

体には私たち自身がまだ気づいていない心が表れていて、それはいつでも生きようとし、明日をより良くしようとしています。

私たちが「もうダメだ」、「こんな自分じゃなければよかったのに」という時も、いつだって。

日本体癖協会では、認定体癖診断士の検査による診断以外は、自己診断を含めすべて、“予測・推測”と捉えております。

それは決して、他を認めない態度なのではありません。

それは、体という贈り物を絶対的に信頼する在り方であり、「本来の自分を知ろう」という勇気に応えようとする姿勢なのです。

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